家庭教師
大学を卒業し、一度は社会人として働き始めたものの、司法試験への夢を捨てきれず、僕は退職をし、司法試験へ挑戦した。それが27歳の時。
結果はすぐには出なかったものの、勉強期間も2年目に突入し、徐々に手ごたえをつかみ始めていた。社会人時代に貯めたお金もなくなってきたし、バイトを始めようと考えた。勉強の時間を極端に減らすことはできない。そこで、家庭教師のバイトをすることにした。
出会い
とりあえずサイトに登録すると、すぐに紹介された。
生徒は、中学1年生の女の子。名前は、ナナ。
まず1回体験してもらって、それで納得してもらったら契約、という流れだった。
「はじめまして。よろしくお願いします。」
こう言ってナナの顔を見た時のことを、今でも覚えている。
黒縁メガネをかけ、少し緊張した顔で、全く笑いもせず、
「あ、はい。よろしくお願いします。」
とぼそっと言った。おとなしくて、どちらかというと少し暗い印象の女の子だった。
そろばんをやっていたこともあって、数学は得意。英語と、社会が苦手。
運動神経は良い。
それだけが事前の情報だった。
いざ一緒に勉強してみると、確かに苦手な科目はあるものの、基本的にはよく理解している。頭の回転も速い。
一回目の体験授業が終了して、家に帰ると、紹介業者から、正式な契約をお願いします、との連絡があった。きっと、お母さんが、「ナナ、どうする?あの先生にする?」と聞いたのだろう。あの子が、僕にする、と言ってくれたと想像すると、少し照れくさい気がした。
こうして、僕はナナの家庭教師の先生になった。
ナナ
本当に真面目な子で、中学生特有のよくわからないノリでもなく、反抗期でもなく、粛々と勉強に取り組んでいた。
僕はというと、教えることを通して中学生時代にタイムスリップしたような気持ちを味わった。いろいろなことがあった中学生。子供でもなく、大人というにはまだ早い、中途半端な時期。「こんなこともあったっけ」と思い出にふけながら、僕は取り組んでいた。
3ヶ月くらいたった頃のある日、お家にお邪魔すると、そこには眼鏡をかけていないナナがいた。
「あれ?今日は眼鏡かけなくて大丈夫なの?」
そういうと、こわばった表情で、こくりとうなずいた。
そしてまた黙々と勉強を始めた。
後からお母さんから聞いた話では、本当は眼鏡をかけなくても目は見えるらしかった。ただ、すごく照れ屋で、それまでは眼鏡をかけていないといられなかったのだそうだ。眼鏡は自分の顔を隠す役目もあったみたいだった。その日から、ナナは眼鏡をしなくなった。

それからしばらくした、ある日。
ナナの勉強を見ていると、ナナのお母さんが、「ちょっと出かけてきます」といって、出かけてしまった。家には僕とナナだけになった。宿題も終わり、家庭教師としての時間も終わった。少し学校のことを質問してみると、今までとは違った表情で、学校のことを笑いながら話してくれた。
気が付けば、徐々にナナは心を開いてくれているようだった。
ナナへの気持ち
ナナにはいろいろと頑張ってほしいと思って接していた。勉強だけじゃなくて、学校生活を一度経験した者として、自分の経験をもとにいろいろとアドバイスした。ナナはバレーボール部に所属していたが、僕自身、中学校のバスケットボール部で部活に夢中だったから、部活についても応援していた。
部活の大会が近づいて、忙しくなってきた頃。ナナのお母さんから連絡があった。
「今日英語の試験が返ってきたんですけど全然できなかったみたいで。これまでにない点数を取って、本人すごく落ち込んでるみたいなんです。少し励ましてくださらないかしら?」
電話を替わってもらうと、ナナは泣いていた。ナナのことだから、全く何もせずに試験に挑むことはしなかったはずだ。でも、納得する結果はでなかった。その真っすぐな気持ちと、悔しくて泣ける気持ちを考えたら、胸が締め付けられる想いだった。僕は試験のスケジュールを把握していなかったことと、その対策をしてあげられなかったことを謝った。そして、これからは試験が近い時には対策を一緒にやっていこう、と。
「頑張ります。これからもよろしくお願いします。」
泣きながらナナは言った。
僕は二度とナナにこんな想いをさせないようにしようと誓った。

それから、メールアドレスを交換し、わからないことがあったらいつでも連絡してもらうようにした。メールだけだと説明が難しい場合は、電話することもあった。連絡はだいたい夜遅くにきた。中学生がこんな時間まで起きて勉強しているのかと心配になったが、わからなかったところが解決した時には、電話の向こうで少しほっとしたナナの声を聞くことができた。少しだけ世間話もした。親密な、二人だけの時間だった。
ナナのお母さんに誘われて部活の大会を見に行ったことがあった。
そこでは勉強している時とはまた違った、伸び伸びと、一生懸命バレーに取り組むナナの姿があった。本当は、僕が行くことはナナには内緒のようだった。ナナのお母さんは、恥ずかしがり屋なナナのことだから、僕が来ることはきっと嫌がるだろうと思っていた。
だが、僕を見つけると、みんなのいる前で、
「今日は来てくれてありがとうございました。」
と笑顔で話しかけてくれた。最初は、目を合わせて話すことができなかったナナ。会話をしようとしても、僕が質問したことにこたえるだけで、自分の意見を言うことがなかったナナ。たくさんの成長を感じて、うれしくて、少しうるんでしまった。

勉強に対しても、部活に対しても、本当に一生懸命なナナと関わっていくことで、すごく良い刺激を受けていた。ナナも頑張っているのだから、僕も負けないようにしようと勉強に取り組むことができた。
ナナも、僕の試験前には励ましてくれるようになった。
旅立ち
僕は司法試験に合格し、ナナの家庭教師を続けるのが難しくなった。
ナナのお母さんに事情を説明すると、応援しますと、了承してくれた。
最後の日。
勉強が終わると、僕はナナにそれまで感じていた気持ちを伝えた。
ナナの一生懸命な姿を見て、僕も頑張ることができたのだと。ナナにはたくさんのことを教えてもらった、と。頑張り屋のあなたのこれからの人生は、間違いなく明るく素敵なことがたくさん待っている、と。
話していて、ナナと過ごした時間が、僕の一部を構成していたことをはっきりと確認した。

帰り道、僕は心にぽっかりと穴があいたような感覚がして、寂しくなった。
と、そこに一通のメールが届いた。それはナナからだった。
恥ずかしかったのか、そのメールには、さっきは口で言えなかった言葉があふれていた。
僕はナナの顔を想像した。
その顔は、温かく、僕の寂しさを癒すように、笑っていた。
kaname著






