変凡な日々の脱却

朝から晩まで週5日働いて、週末は寝て過ごす。
社会人になってからは友人とも会う回数が減っていた。
このままでは自分が死んでいくような気がして、
思い切って音楽教室へ通うことに。
大人のジャズピアノというものに憧れて習い始めたものの、
楽器の王様と呼ばれるピアノをそう簡単に弾けるはずもなく
早くも私のモチベーションは徐々に下がっていく。
もう退会してしまおうかと悩んでいると、カラフルな貼り紙が目に入る。
〈毎年恒例!今年もバンドを組んで熱いライブをしよう!〉
ビビっときた私は、迷いもせずにイベント用紙を提出したのだった。
救世主

加入するバンドが決まり、
練習を始めて数日で私の顔はだんだん曇っていく。
ー誰もが知ってるこの有名な曲って、こんなに難しいんだ…!
心が折れそうになりながらも猛練習をして
メンバーと音合わせをしたがその結果は上手くいかず最悪で…。
音楽スタジオを出てご飯に誘われたが、
心が折れてしまっていた私はそそくさと帰宅してしまう。
部屋着に着替えもせずソファーに寝転ぶと、
メンバーの1人からメッセージが届いていたが
今は返信する元気もないし既読だけつけておこうと画面を開く。
「お疲れ様!みんなで音を合わせるのって難しいから、今度2人で個人練習してみよう」
そうメッセージをくれた彼はピアノやギター、ベースが弾けて、
ドラムも叩けるマルチプレイヤー。
私はすぐに「神ですか!?是非、よろしくお願いします!」と、返信する。
ソファーから飛び上がって、
さっきまで落ち込んでいたことも忘れてルンルン気分になっていた。
堕ちていく
彼のおかげで今までが嘘のように上達していき、
練習終わりにはいつも2人で外食するように。
家に到着する頃には「ちゃんと帰れた?」と、必ず連絡がくる。
彼の存在が次第に大きくなっていたことに気づき始めていた。
20歳年上の大人の余裕さと包容力に、みるみるうにち心を奪われていたのだ。
そしてバンドメンバーで自分だけが特別扱いされていることに優越感を覚え、
恋心はヒートアップしていく。
ある晩、練習終わりに誘われたドライブで人通りのない場所に車を止めた彼は、
突然に私を抱きしめてこう告げる。
「君のことを好きになってしまったんだ。頑張る姿が可愛くて。もうだめだよ。」
これまでそんな素振りを見せてこなかったのに、
自分を女として意識してくれていたことに大きな喜びを感じた。
「ホテルに行こうか」
耳元でそう呟く彼の左手の薬指を、私はそっと見つめた。
本気の恋

音楽教室のバンド活動を終えたあとも、私たちの関係は続いた。
彼は妻子持ちだったが妻とは上手くいっておらず、私に夢中になっていた。
そして私もまた、彼に夢中になった。
会いたいと言えば、夜でも口実を作って車で来てくれたり、
週末には私のために時間を作ってくれる。
ここでも私は、優越感に浸っていたのだ。妻より愛されているのだと。
デートを重ねるごとに彼への思いはより一層強くなっていく。
きっとこの先、彼以上の人は現れない。
性格も趣味も体の相性も抜群な彼を手放したくない。
彼がいない人生を想像すると怖くなった。
それを感じていたのは私だけではなかったようで
いつしかデートの時には、彼の左手から結婚指輪がなくなっていた。
そう、私たちは一緒になることを強く願っていたのだ。
プレゼント

夜の街はイルミネーション一色に。
彼と付き合ってもうすぐ1年半が経とうとしていた頃、
クリスマスの夜から翌朝まで、2人でホテルに泊まることになっていた。
好きな人と聖なる夜を一緒に過ごすのは初めてで、ドキドキしていた私。
深夜のピロートークを終え、トイレを済ませてドアを開けると突然目隠しをされた。
そのままベッドに連れていかれ、私に覆いかぶさった彼の手には小さな箱が。
「こんな場所でしか渡せなくてごめんね。愛してる。」
そっと箱を開けて「え、これって…」と、声を震わせる。
それは私がずっと欲しがっていた高価なアクセサリー。
嬉しさと感動のあまり涙をこぼすと、彼は優しく抱きしめてくれた。
この時、私は幸せの絶頂にいた。
それは突然に

デートをした帰りにはいつも連絡がくるのに、その日はこなかった。
電話をしても繋がらない。
どう考えてもおかしいと思い、メッセージをたくさん送って返事を待った。
そして数時間後、画面に1通の通知が表示される。
「彼は事故にあって、今は病院にいます。連絡はとれません。」
血の気が引いた。
彼の事故を知りショックで混乱していたけれど、これだけは明確に分かってしまった。
この返信相手は、間違いなく彼の妻からだ。
一気に怖くなった。現実を突然、目の前に叩きつけられた。
彼の非常事態の時にそばにいれるのは、私ではないんだー。
涙は出なかった。ただただ頭が真っ白になっていた。
愛しています

彼の車に乗る。こうして会うのは数週間ぶりだった。
「びっくりさせちゃってごめんね。」と、優しい表情の彼。
久しぶりに見るその顔、いつもの柔軟剤の香りが愛おしい。
「今日で私たちはおしまいにしよう。」
彼は突然の告白にひどく困惑して、それはだめだと私を引き留めた。
「好きな人ができたの!その人はいつも私を1番に想ってくれるんだよ。」
しばらく沈黙が続き、彼が重い口を開けた。
「俺もいつも1番に想ってたつもりだったよ。本当に愛してるから。」
「うん。今までありがとう。」
車を出て、振り返ることはなかった。
彼の顔を見ると、自分の決意が揺らいでしまうと分かっていたからー。
ただ好きだった

私は純粋に恋をしていた。ずっと一緒にいたいと思った。
本当に彼を愛し、運命の相手だと思った。
ただそれが、既婚者だった。それだけのこと。
彼という1人の人間に惹かれ、大恋愛をしただけなのだ。
あれだけ恐れていたのに自ら彼を手放したのは、
不倫は誰も幸せにならないと気付いたから。
彼を失って心はボロボロになったが、本気の恋をあの人とできたことは、
今でも嬉しく思うし感謝もしている。
別れを切り出したあの日、好きな人ができたいうのは別れるための嘘だった。
でも次に好きになる人とは、本当の幸せを手に入れたいと強く願っている。
k102著
























